日比谷松本楼の歴史
Our History

1903年に、日本ではじめての
洋式公園として生まれた
日比谷公園と時を同じくして
オープンした日比谷松本楼
私たちの歩んできた道は
おもてなしの歴史でもあります
開花の時代、文化の発信地として
日比谷松本楼は1903年、日本ではじめての洋式公園として誕生した日比谷公園のコンセプトである「3つの洋(洋花、洋食、洋楽)」のうちのひとつとして開園にあわせて創業しました。建物は当時流行していたマンサード屋根の3階建て。おしゃれな店として評判を呼び、ハイカラ好きなモボやモガのあいだでは「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行しました。
明治時代の文芸活動「パンの会」第1回会合が日比谷松本楼で開かれ、若き詩人や美術家たちが集まりました。また夏目漱石や、『智恵子抄』の高村光太郎をはじめとする多くの文人の憩いの場所となり、彼らの詩や小説の舞台としても反映されています。
激動の近代史の舞台に
日比谷公園は、日露戦争大祝捷会が行われるなど、政治の主要な舞台となっていきました。写真は大正2年の政治集会に集まった市民に対し、日比谷松本楼のバルコニーから憲政擁護の演説が行われているシーンを撮影したものです。
中国革命の父・孫文と梅屋庄吉
1階ロビーの右手に展示してある燭台付きのアップライトピアノ(写真・左)は、梅屋庄吉邸において孫文夫人である宋慶齢が弾いていたピアノで、国産のもっとも古いもののひとつです。
日比谷松本楼になじみ深いお客様に、革命の志士・孫文(写真・中央)もいらっしゃいました。辛亥革命時、日本に亡命中だった孫文は、日比谷松本楼の代表取締役会長夫人の祖父であり、現社長 小坂文乃の曾祖父にあたる梅屋庄吉(写真は梅屋夫妻)に連れられて革命運動のため、しばしば当店を訪れております。
梅屋庄吉は、中国革命の父と称えられる孫文を一生をとおして、物心両面で支えました。
孫文は日本亡命中、足しげく梅屋邸に出入りしておりました。大正4年には梅屋邸で宋慶齢(写真・右)とめぐりあい、結婚式を挙げることとなります。夫婦が中国に戻るまでのあいだ、宋慶齢は東京に滞在しているときにしばしば梅屋邸を訪れ、このピアノを弾いていたそうです。孫文は日比谷松本楼も訪れていたことから、日比谷松本楼の再建後(下記)に「孫文夫人ゆかりのピアノ」が店内に展示されることとなりました。
10円カレーチャリティセールのはじまり
昭和46年秋、沖縄デーの大混乱の中、放火により日比谷松本楼は炎上焼失しました。全国からのあたたかい励ましに支えられて、昭和48年9月25日に、新装再オープンすることができました。そのときの感謝の心をこめた、記念行事としてはじまったのが「10円カレーチャリティセール」です。
昭和58年、創業80周年を迎えたこの年は、再建10周年でもあり、なにかと話題の尽きない年となりました。第11回「10円カレーチャリティセール」では、本イベントの趣旨に賛同した森繁久彌さんが1日社長を務めてくださいました。
100周年を迎え、さらなる未来へ
日比谷公園開園100年となる平成15年、日比谷松本楼も「創業100年」を迎え、さまざまな行事や園内に記念の桜植樹が行われました。
平成20年5月6日、福田康夫総理(当時)主催の「胡錦濤国家主席訪日歓迎夕食会」が日比谷松本楼で行われました。胡錦濤主席は、孫文と梅屋庄吉の資料を熱心にご覧になりました。
辛亥革命を影から支えた男 梅屋庄吉
私たちの歴史を語るにあたって欠かせない人物である梅屋庄吉は、現在の映画会社「日活」の前身となる「日本活動写真株式会社」の創業者のひとりとして、草創期の日本映画界を牽引し、その映画事業の成功によって築いた財産をもとに、辛亥革命において孫文を支援した人物として知られています。梅屋庄吉について知ることのできる資料をご紹介いたします。
書籍『革命をプロデュースした日本人』
書籍『ナガサキ人梅屋庄吉の生涯』
ウェブサイト「孫文・梅屋庄吉と長崎」